大岡寺について
大岡寺の理念
宗教法人大岡寺は観世音菩薩を本尊として、公衆礼拝の施設を備え、仏教の本義に基づき、観音経を所依の経典として、観音救世の教義を広め、儀式行事を行い、信者の教化育成し、社会福祉に寄与する他、この寺院の目的を達成するための業務及び事業を行うことを目的とします。
しかしそれだけに止まらず当院が社会の一員として存在する意義を見い出すため寺院としてどのようにして、いかに効果的に社会貢献できるかを常に模索してまいりました。そして様々な活動を通して地域住民及び関係者の方々との触れ合いや意見交換により、数多くの事を学ぶことが出来たと感じております。
一見豊かで便利な世の中で人々は幸せに暮らしているように見受けられますが、内面は複雑で解決策の見いだせない精神的ストレス、頻発する凶悪犯罪への恐怖、未だ不安定な経済状況への不安など、人々を取り巻く社会環境は多くの困難の中にあります。
われわれ大岡寺は人々の不安を和らげ、現在ある諸問題の解決に少しでも役立つような活動を今後も継続し、その実現を目指していきたいと考えております。
また、大岡寺は「行ける全てのものには尊い命があり、そこには上下の隔たりがなく平等である」という教えを大切にし、人と動物の命の尊さを分け隔てることなく、この世に生まれ、お互いにいたわりあって生きる仲間として、誠心誠意真心を込めて亡くなったペットたちのご供養・法要、また納骨等を執り行わせていただいております。
社会貢献こそ大岡寺の存在意義であり基本理念であると考えます。
大岡寺の由緒
古く、この寺は「龍王山観音院」と号し、俗に「岡観音」の名で知られています。寺伝によれば、僧行基が諸国行脚に際し、大岡山(おおおかやま)に一宇を建て、自彫の千手観音の木像を安置したのが創まりで、時白鳳十四年(六八六年)六月十八日であったと伝う。その後、寺勢は盛大を極め、十六箇院が建立され、当山は、その東坊=本坊でありました。
当山の所在が要害の地で、交通も至便であったので、武将の布陣となったこともあり、源義綱(天仁二年)、鴨長明(健保の頃この寺で発心)、源光行(貞応三年)、それに一条兼良(文明の頃)などが宿ったことがありました。
また、元禄の頃には、俳人芭蕉も当山を訪れ、友人と会見「命ふたつ中には活きたる桜かな」の一句を残しています。
単立寺院としての大岡寺
天正十三年(一五八五年)中村一氏が秀吉公の命を受け、岡山城に築城にあたり、当山を地頭に移し、山頂に城郭を構築しました。落城後、江戸期に加藤氏が水口城=碧水城(現在水口高校)の城主となるに及んで、当山をその祈願所とし、寺領および大般若経六百巻、梵鐘寺等を寄進しました。正徳五年(一七一五年)僧寂堂は、藩主の好意を得て、古城山麓の現在地に中興開山し「龍王山大岡寺」と称し、時あたかも享保元年(一七一六年)六月でした。
その後、この地には、本堂=観音堂をはじめ行者堂、本地堂、鐘楼堂、客殿、そして山頂に奥の院=阿迦宮(享保元年僧寂堂創建)があり、放生池畔に諏訪神社があります。この寺の裏山一帯は、石佛による四国三十三観音霊場(大正八年僧恵良創建)の巡拝ができ、境内には、史蹟が多く、中村栗園、巌谷小波の父一六(書家)の記念碑等が点在しています。また、山門を入ると右手の放生池(ほうじょういけ)・弁天堂があり、春は桜、秋は紅葉の名所として有名なお寺です。
近江西国三十三箇所
仏の心に出会う、慈悲の声を聞く
母なびわ湖に抱かれた近江は、昔から西方浄土を求める人々が日本の津々浦々より訪れた巡礼の聖地です。札所代一番の常楽寺にはじまり、打ち止めの妙感寺まで、緑樹茂る道、楓に染まる近江路を、祈りつつ巡り巡ってごらんになれます。
霊場三十三箇所、巡れば湖さながらの広くて深い観音さまの慈悲に、み仏の心に出会えます。